花散華 1
 
昼はあれほど、晴れていたというのに夕刻になって降りだした雨は、夜半に入り雨脚を強め、風をともないまるで嵐のようだった。
今にも窓が壊れるのではと孫権は一人きりの室で顔をあげる。
空が泣いているかのようだと孫権は思う。
まるで、あの日のようではないか。
「兄上…」
孫策死す−。
暗殺者の毒矢に倒れ、これからというときに死を迎えた兄の無念はいかばかりだったろうと孫権は思う。兄がいなくなってまだ一月あまりが過ぎた、いやもう一月というべきか。
呉は未だ喪の悲しみに包まれたままである。
孫策の遺言により、後を継ぎ君主となったのは孫権である。
だが、あの兄のような人を魅了せずにいられないほどの力が孫権にあるかと問われたら、否と応えるだろう。
自分の器は自分が一番分かっているつもりだ。そんなことを思いながら、孫権は卓の上に置かれた酒に手を伸ばす。
「殿、中護軍閣下が参られました」
室の外から衛士が声をかける。
「入れ」
「お呼びとあり、参上致しました」
孫権が声をかけると、周瑜は跪き恭しく拱手する。
「こんな夜更けに呼び出してすまなかったな」
「いいえ。お気になさらず。お呼びとあればいかなるときにも参上するのが臣の役目でございます」
周瑜は口角を僅かにあげ笑みを浮かべる。
周瑜の浮かべた笑みに孫権は胸がずきりと痛む。
「この室には暫く誰も来ない。他人行儀な真似はやめてほしい。そなたのことは今でも私は義兄上と思っているのだから」
「もったいないお言葉でございます」
けれど、周瑜は恭しい態度を崩そうとはしない。
「それで、私に御用とは何でしょう?」
「ああ…、その少し付き合ってくれぬか。兄上のことなど語りながら杯を重ねようではないか」
内政が安定するまではと、周瑜も水軍の調練などは一時的に他のものに任せ、城に詰めいるようになっていた。だからこうして突然の夜半の呼び出しにも応じられるのだ。
それだけかと問われるのを承知で孫権は周瑜の様子を伺いみる。
だが、予想に反して周瑜は何も言わなかった。
それどころか、孫策の名にも眉一つ動かすことなく、先ほどと同じような笑みを浮かべ承知いたしましたと言うのみだった。
向かい合って杯を重ねる。自分と違って然程いける口ではない周瑜は時折杯を傾けるのみで、主に孫権の杯に注ぐ役に回る。
「私は、今でも兄上が亡くなったなどと信じられないのだ。葬儀も済ませたというのにな」
「ええ。私もそう思います…」
周瑜は僅かに目を伏せて哀悼の意を表す。
少し痩せたかと孫権は周瑜の様子をみて思う。
孫策が亡くなり、悲しみに打ちひしがれる面々の諸侯に、道を示したのは周瑜だった。
『先君は、弟君であらせられる孝廉様に後を継がれるようにとのご遺言です。さすれば、悲しみは尽きねど、我々は新たなる主に忠勤をはげむのが先君に対する何よりの餞でございましょう』と。
そう言って、真っ先に孫権に跪いたのは他ならぬ周瑜だったのだ。
孫策の片腕、いやそれ以上の存在であった、周瑜の言葉に周囲は次々と倣い膝を屈しっていった。跡目争いなどという愚かなこともおきずに、粛々と孫権の代へと代替わりができたのは一重に周瑜のお陰といえよう。
だから、孫権は思ったのだ。周瑜とて悲しいのを堪え、孫権の世を造っていく礎となってくれるのだと。
けれど、それは孫権の思い過ごしだったのではないかという漠然とした不安。
孫策に対するような親愛の情はいつまでたっても感じられず、兄がいたときに見せてくれていた花開くような笑みも向けられることはない。
開きかけた扉が目の前で閉ざされかのようだった。
「そなたは、本当に私に仕える気があるのか?」
「突然何をおっしゃいます?」
困惑したように周瑜の柳眉が潜められる。
孫権はそれすらも周瑜の演技に思え、思わずかっとなって、手にした杯の中身を周瑜に浴びせかける。
「そなたの主は誰だ?」
周瑜は孫権の突然の無礼な振る舞いにも、黙って顔にかかった酒を手の甲で拭う。
「何かご不興を買うような振る舞いをしてしまったようで申し訳ありません」
周瑜は静かに詫びた。
その様に孫権は周瑜の手首を掴みあげる。





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